“個性を活かすこと” と ”守・破・離”ということ

令和 4年 8月 吉日

 (公財)合気会公認道場

ひとみ幼稚園 長束道場

村田 義昭

 

 私が思う合気道の魅力の一つに体格を含む自分を、即ち個性を活かせるところにある。ところで「個性を大切に!」、と云われ始めて久しい。  

個性とは、広辞苑によれば「個人に具わり、その個人を他の個人と異ならせる性格、…云々」とあります。  要するに、人々を十把一絡げ的扱いではなく、A君はA君、BさんはBさんとして…、それぞれの存在が、それぞれ人々に認められることでしょうか?!

 日本人の老若男女の多くが「…個性的でありたい…」、「…自分らしく生きたい…」、「…自分を活かした仕事に就きたい…」、また「…多様化の時代…」とかをよく口にし、それをよく耳にし、お目にもかかります。 果たして、その実態はどうでしょうか?

 私は、その多くは口先だけのスローガン的、また願望程度ではないか、と思っています。

例えば、出る杭は打たれるのを嫌うためなのか、意に反したことであっても没個性的にそれに従ってしまうとか、いじめの問題で見て見ぬ振りをする多くの大人や子供、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という付和雷同的な人々、自分の考えを持たぬ人々やすぐに責任転嫁したがる人々の存在の、何と多いことか!

また、この頃、わがままなガキがそのまま大きくなったような人を多く見掛けますが、そんな生ナマの自分をさらけ出すといった我流ではとても「個性」とは云えないでしょう! 一流の料理は粗(素)材から吟味されるように、ただ生ならいい、だけでは…!!

  ともあれ、基本的には誰だって自分らしくありたい、自分を活かしたい、自分を認めて欲しい、などと思っています。よ、ね!?                                          

そのためには立派な人物や良いものを手本とした、かつての日本の良き伝統を思い出すこと、その上で、自己を高め、深め、広げるために、自己を鍛え、錬り、磨いて行くことが大切であり、またその道の先達は続いて来る者の手本となる、そうした気概を持つこと、即ち双方が守・破・離”をしっかりと意識することが大切だ、と私は考えています。

 じゃ、“守・破・離”とは、一体どういうことでしょうか?

稽古事の世界ではよく聞く言葉ですが、鳥が「親鳥に暖められた卵の殻を破り雛となり、餌を与えられ成長し、やがて巣立って行く」に例えれば分かり良い、と思います。

稽古事に限定して申せば、「先人によって確立された正しい技法(型)を受け継いだ上で、自己の特長を生かして、やがて自己を確立(形に)して行く」、ということでしょうか!

 これなくしては単なる我流でしかなく、成長に限界がある、と考えます。

余談ながら“型”、とは?!  … 因みにご存じの通り、合気道は“型稽古”です。

歌手、長渕剛さんの“stay dream”の歌詞に禅問答のようですが、「♪ 本当の自由はがんじがらめの不自由さの中にある ♫」のフレーズがある由。 

この歌詞、武道・武術に存在する型、これに通じるのでは…!? 即ち、無意識に作動する正しい動きを意識化、繰り返し、繰り返し稽古をして無意識化する、即ちどのような状況においても対応できる動きを会得してゆくためのツール、とされています。

 まず“守”、親鳥に暖められた卵の段階で、師について基本を徹底的に学ぶ時期です。学ぶは真似るが動詞化したもの、と云われておりますが、師の教えに対して真摯に耳を傾け、しっかり観て、じっくり感じて、徹底して真似る時期である、と思います。

百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず」です。    

 次に“破”、卵の殻を破り雛となり、餌を与えられ成長していく段階で、基本を習得後また習得しつつ、それらをベースとして、視野を広げるためにいろんな武術を研究し、師匠や上級者などの優れた技を盗み、自分で工夫を加えつつ鍛え、自己の技や自己の確立を図る、またその方向探る時期である、と思います。

継続は力なり、されど工夫はもっと力なり。」です。  産みの苦しみはあろうかと思いますが、最も楽しい段階かも…、どうでしょう?!

 最後に“離”、やがて巣立っていく段階で、自己を、また技を錬り、自己確立を図りつつ、こうしたことを後輩に伝えて行く時期である、と思います。

 

 繰り返しになりますが、稽古事に限らず、“守・破・離”的な考え方を進める過程で真の個性が形成されて行く、のだと思います。

単なる“生”は我流にしか過ぎず、人々を教え導くはずの宗教でさえ、原理主義は妄信的で他を破壊するまでに至っております。 ましてや、俗人のこの社会では、や!、です。

以上

 

 

〔文責:村田義昭、【ちょっとお目を拝借-1】、R4.8.15.補筆〕